孤独を超えるリーダーシップとメンタルケア

人や会社には相談できない悩みを抱えた人のための解決方法

”相互理解は不可能”という前提から始めるコミュニケーション

今朝方、私のFacebookのタイムラインに飛び込んできた脳科学者・茂木健一郎さんのコラムが、いちいち「いいね!」したくなるような共感の連発だったのでシェアします。

 

gotcha.alc.co.jp

 

 

デジタルネイティブの子どもたちが成長してきた今の時代、かつてのコミュニケーションの手法は通用しなくなったと、茂木健一郎さんは語ります。

~(中略)~

 『バカの壁』は、人と人とがわかりあうことの難しさを養老先生らしい語り口で説いた本である。あれだけ売れたということは、皆、思い当たるところがあったのだろう。

「話せばわかる」と言えない時代の到来

もともと、日本人は、お互いを似たようなものだという前提からコミュニケーションを始める傾向がある。 「話せばわかる」「腹を割って話す」「胸襟を開いて話す」「無礼講」といった言葉は、きちんと話せば心と心は通じ合うという私たちの美しい信仰を表している。 ところが、時代が流れて、話せばわかるとも言えなくなってきた。養老先生の言葉を借りれば、コミュニケーションの「バカの壁」が至るところに出てきてしまっているのである。

~(中略)~

世代間ギャップより深刻な「壁」

子どもがスマホばかりいじっているというお母さんの嘆きをよく聞く。イメージとしては、スマホをいじる時間はさぼっているように感じるのだろう。 しかし、実際には子どもがスマホで何をやっているのかはわからない。

~(中略)~

話せば話すほど対立が深まる

政治では、リベラルと保守の間で言葉が通じない。日本だけではない。世界的な傾向だ。 リベラルと保守の立場の人たちが、お互いに相手を揶揄(やゆ)する呼び名は、世界各国に存在する。

~(中略)~

現代の社会は、至るところにコミュニケーションの壁、「バカの壁」があるように見える。 そして、どんなに意を尽くしても、心を開いても、その壁を乗り越えることは難しいようにも見える。 

~(中略)~

相互理解は不可能という前提から出発する では、意見が違う人、価値観が一致しない人は、無視し続けるしかないのか。コミュニケーションの壁は乗り越えることができないのか。

ここに、現代の生き方を考える上での、最も大切な課題があるように思う。

振り返れば、私たちは、お互いに心を開けば話が通じるはずだと思いすぎていたのかもしれない。壁を乗り越えられるという「期待値」が高いほど、そうでない時に失望してしまう。

~(中略)~

そのような絶望的認識に立ち返った時、それでも「パンドラの箱」の中に残る「希望」があるとすれば、そのかすかな希望から、もう一度コミュニケーションを立ち上げるしかないと思う。 

~(中略)~

しかし、コミュニケーションはもともと難しいのだ、至るところ壁ばかりなのだと思うと、かえって気楽になるように思う。

~(中略)~

「壁」があるからこそ、「壁」を乗り越える喜びもある。そう思うと、「壁」があるのもそんなに悪くはないと思えてくる。

茂木健一郎さんが語る、デジタル時代の「バカの壁」 - GOTCHA!

 

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 私が北京に来てから長いこと味わってきたのは、どうにもわかり合えることのない中国人義父母との同居生活。


同居させられてきた理由は、夫婦共働きで子どもの世話を日中面倒見れる人がいない、お手伝いさんを雇って対処している家は多いけど、うちの中方はお手伝いさんを全く信用できないから、ということでやむを得ず認めてきた。


で、同居し続けてきてどうか?というと、ホントにどうにもならない。

そもそも僕が生きてきた世界と彼らが生きてきた世界が違いすぎる。僕は基本的に恵まれた家庭で東京という大都会で比較的先進的な暮らしをしてきた。世界的基準でみれば、相当ラクな暮らし。そして父親が神社の家の生まれのために信仰は神道。加えて少しだけ霊感も強め故に信仰も一般レベルよりは強めだろう。そのせいか、あまり意識したことはないけど、どちらかと言えば右寄りかもしれない。「二百三高地」や「連合艦隊」などの戦争映画を見ると終盤は涙が止まらなくなるし(笑)

それとは対照的に、義父母はバリバリの共産党員で、今だに毛沢東崇拝を引きずっている。中華人民共和国建国の前からこの世に生を受け、激動のこの地でずっと生活してきた人たち。非科学的な迷信を多少まだ信じているところもあり、仕事を引退してからというもの、暇さえあればテレビやネットで抗日戦争ドラマばかり見ている(孫が日本国籍だってのに、そんなのばっか見てんじゃねぇよ!といつも思う)。そして、彼らに神はいない。

先日も、共産党がクリスマスを禁止して12月26日の毛沢東の生誕日を祝おうと訴えたとき、義父母も同調しだすから娘も気を遣って萎縮してしまって一悶着起こりそうだったし。

娘が発熱するときも大体モメる。39度の熱があって、1回病院行くならまだしも、夜になっても熱が下がらないからと深夜にまで1日2度目の激混み病院に連れて行こうとしたり。(近くないのに)

 
こんなにも違う人間同士が、同じ屋根の下で暮らしていてうまくいくはずがない。


そのため、僕は家出もしている。


こうした経験をしていると、相互理解というのがそもそも不可能な相手もいるのだということを否応なく思い知らされる。「全てを受け入れる」ことを人生修行のひとつとして捉えている人も多く存在しているはずだが、厳密にはこれは必ずしもそうではない。


日頃からわがまま勝手で人を排除しがちな人にとっては、「多くの価値観を受け入れる」ことは修行となるが、逆に、とても優しく純粋で善良な人たちにとっては、「自分の”嫌い”を素直に認める」ことが修行となる。

 

 で、だったらそんなところから逃げればいいじゃん、というのが普通の考え。ただし、僕には逃げられない理由がある。それは


娘の存在


娘は僕にとっても大事な娘だし、中方にとっても大事な娘だ。この子が互いにとって大事なものである限り、意見や価値観が違い過ぎるからといって互いに無視し続けることは出来ない。

 

そして、向こうは自己主張の強い中華民族であるのに対し、こちらはお人好しの日本人で、僕はとりわけその中でもかなりのお人好し。おかげでさらに苦労する。しかも、現状向こうは多数でこちらはソロ。ズルいにも程ってもんがあんだろう?と思わざるを得ない。

 

とはいえ、こんな経験からも学んだことがひとつ。それは

 

誰かとコミュニケーションを取るのに、いちいち相手と仲良くなることも嫌いになる必要もなく、必要に応じてやり取りしていればいい。その中で言い合いになることもあるだろうし、互いに談笑していることもある、ということ。


そもそも人がわかり合うということはホントに難しい。わかり合っているように見えても実はお互いに何もわかっていないということも多い。あくまで表面的な付き合いしかしていないのかもしれない。


高校生の頃、学年の半分がアメリカに短期留学をするというプログラムに参加したとき、それまで親友同士だったはずの人たちが、数ヶ月の同居生活を経て互いに憎みあうようになり、全く新しい人間関係が構築されていったケースをいくつか見てきた。

 

このように、人と人がわかり合うということは、本質的にはそれほどまでに、絶望的に難しい。


いや、そんなことは無い!という人は、それまで自分にとって居心地の良い人たち、ある程度価値観を共有できる人たちとしか付き合いを持ったことがないのかもしれない。


でも、そうして付き合っていて居心地の良い人たちとだけ接点を持つようにする、という生き方を否定するつもりもない。僕自身も出来ればそうしたいものだ。何よりラクだし。


彼らとの接点となっている僕の大事な娘も、生みたいと励んで子作りしていたわけではなく、ホントに偶然の授かりものなのだけれど、あまりの偶然性ゆえにそこには多少の宿命を感じている。だから、こうしたコミュニケーションの難しさを体感していることも僕の宿命のひとつなのかもしれない、と勝手に解釈している。

  

僕が上記のような経験から得た答えも、「わかりあえるはず」という期待や、本来は100点であることを前提としたコミュニケーションではなく


絶望的状態の「0(ゼロ)」から作っていくコミュニケーション。

多くの日本人が幻想として持っている"わかりあえるはず"を前提としたコミュニケーションって実は、100点ありきの減点主義的なコミュニケーション。

それに対して、絶望的状態の「0(ゼロ)」から少しずつ築いていくコミュニケーションは、加算方式のコミュニケーション。


僕と義父母は、僕らが日本にいた頃から諍いばかり。以前は「さっさと逝ってしまえばいいのに」と恨みもあったものの、異文化コミュニケーションというのはそもそも絶望的に難しいのだから、好きにも嫌いにもならずに必要に応じて少しずつ作っていけばいいということに気付いてからは、それほど恨みというものはなくなり


今では、資金に余裕があれば旅行に行くお金くらいは出してあげてもいいのかな?とか、向こうには向こうの苦労があるということも想像できる心の余裕も生まれるようになった。


かといって、好きになって仲良くなれることも、今後永久にないのでしょう。その必要性も感じないし。僕が中国共産党に洗脳されるようなら話は別だけど(笑)

 

僕がこうして長年イヤな想いをたくさんしながら得た上述の結論は、日本がこれから中国という隣の"面白いけどおっかなくて大きい”、得体の知れないこの国と付き合っていくための心得というか智慧のようなものが内包されているようにも感じている。


そうやって物事を俯瞰して考えてみると、自分のあり方も少し見えてくる。


金子みすゞの詩に

「みんな違って みんないい」

ってあるけど


僕から言わせれば

「みんな違って めんどくせぇ。
 でも、まぁ、しゃあないよね。」

って感じ。


以前の異文化コミュニケーションって、ある程度付き合う相手を選ぶことも出来ていたようにも思える。


しかし、グローバルスタンダード化やSNS流行の結果、世界は繋がりすぎてしまい、付き合う相手を選ぶこともまた難しくなっているはず。「みんな違って みんないい」というのは、あくまで付き合う相手を選べているときの理想でしかない。


だからこそ、そうした理想を追いかけることと並行して、もっと地に足つけて、付き合わざるを得ない相手とどう付き合っていくかについて、現実的な対処をしていった方が、実りは多くなると思うのです。

 

<この記事を書いた人>

平林孝之 ビジネスコーチ 大卒後、12年間音楽コンテンツ業界を経験した後、”ブレイブボード”を全国ヒット商品にしたスタッフの一人となる。北京に来てからは欧州系IT企業にてプロジェクト管理、ビジネスコンサルの営業職を経て創業。双極性障害など自身の過去の波乱な体験や、自身の国際結婚などの難しさからコミュニケーション・心理学を学び始め、プロコーチに。また、全て実務経験を伴った”MBA”状態のためビジネスコーチングが得意。合氣道などで学んだ身体からのアプローチによるリーダーシップ開発も行なっている。独学ながら中国語ビジネスレベル。中国日本商会・北京日本倶楽部・政府機関等での講演実績。米国NLP協会認定コーチ・トラストコーチング認定プロフェッショナルコーチ・心身統一合氣道初段

 

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