孤独を超えるリーダーシップ

ひとりぼっちになりがちな人のためのココロとカラダのつくり方

欲求か依存かを見極めるには

こんにちは!平林孝之です。

 

昨晩、このようなエントリーをアップしたところ、コメントを頂いたので、本エントリーを以って私の考えを述べてみます。

blog.takayukihirarin.me

 

 <頂いたコメント>

こんにちは。私もよく直面する課題ですので興味深く拝読させて頂きました。
整えるために三大欲求を満たすとのことですが、好きか依存かの部分はコントロールが難しいと感じています。
本能的に満たされ快楽を感じると、更に強く欲するようになり、何処かできちんと自制する仕組みがないと欲求を満たされるだけで満足して、他へのやりがい(社会的に成し遂げたいこととか)への意欲まで削がれないかなぁと思いました。
ただ孤独を感じている状態であればまずは自分を労ることが優先なので、こういった欲求により意識するのがいいのだろうと理解しました。

 

僕の考えとして、好きか依存かの部分は多くは「コントロール」出来ないもののはずです。コントロールできるに越したことはありませんが、現実的にしばらくは難しいケースが多い。

タバコやお酒などは、その典型的なものです。

 

ですからまず、コントロールは当面の課題として意識を持ちながら、自分の欲求が純粋に

「是非やってみたいことなのか」
「心踊る欲求なのか」

もしくは

「やらなければならないものなのか」
「やらずにはいられないものなのか」
「やってみたものの、後になって後悔してしまうものなのか」

”見極める”必要があると思います。

コントロールできないまでも、当面はどちらなのかを知りながらやり過ごす。このどちらかを知り得ないうちは、今後どう自制していくのか?ということを考えるには至らないでしょう。

 

そして、もう1つ2つほど上の段階の思考レベルを意識する必要もあります。

それは”自分にとって理想の生き方は何か?”という視点です。

ですから、その欲求が”自分にとっての理想の生き方が欲しているものなのかどうか”ということを意識する必要もあるでしょうし

その欲求が自分にとっての理想の生き方(生き甲斐)への障害になりかねないのであれば、それに対してはある程度自制する仕組みを考える必要もあると思います。

ただし、依存を自制しても、我慢し続けるだけではいつか暴発してしまう可能性もあるので気をつけたいところです。



”依存”を発生させてしまうのは、ある未処理の感情を処理したいという欲求ですから、まずはその未処理の感情が何なのか?を知り、しっかり感じる必要があります。

そして、その感情を依存という行為に頼らず、味わいきって解放していくことでしか解消されていかないでしょうね。

味わうことに数年を要するものありますし、これはケースバイケースです。私自身も何年もかけて味わいきってきた感情がいくつもあります。

そのおかげで、20代の頃にかなり依存気味だった行為も、今は全くやらずに済むようにはなっています。

 

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人のせいにしてもいい

こんにちは、平林孝之です。

僕のように人の相談に乗るような仕事をしている人や、日頃の人間関係に困り果ててココロの勉強を少ししている人は

”すべては自分から”

”他人は変えられないけど自分はいつでも変えられる”

”唯一コントロールできるのは自分”

”すべては自分の心の投影”

ということを見聞きしたことがあるはずです。


では、こうしたことを”勉強する”ことで、その後、上手くいきましたか?全てを自分で引き受けられるようになりましたか?

もちろん上手くいったケースもあるだろうけど、結局うまくいっていないケースの方が多いはず。

何で上手くいかないのか?
これが心の問題の難しさなのですが、

心に関する知識って
本や人から学んで知ったとしても
実際にそう思えるかどうかは

”潜在意識から理解したか”

でしかない。

顕在意識・表層意識で知っているだけでは
理解しているとは言えないのですよね。


他の学問であれば
例えば語学であれば

単語を覚えて
文法を覚えて
どう発音するか覚えて

とことん暗記して
とことん練習すれば
出来るようになります。


ただし、心に関する勉強はそうはいかない。

精神科医として
カウンセラーとして

患者に対して
客観的な視点からアドバイスする分には
学んだことを伝えるだけでもいいかもしれません。
(それで相手に伝わるかどうかは不明)

でも自分のことに関しては
それだけではどうにもならず

患者やクライアントにアドバイスするように
それを自分に対して適用しようとしても
うまく適用できないことが多いはず。

もし適用しようとして
いきなり上手く行ったら
それはたまたまラッキーだっただけかもしれない。

これまで触れたことのない考え方に触れて
身体に電撃が走ったような衝撃を覚えたなら
そういうときは上手くいくはず。

でも、こうしたビギナーズラックは
次回以降は使えなくなり
下手に学んでしまった分

次からは上手くその知識を
使えない自分にイライラし

”何でうまく知識を使えないのか?”

と自己否定するようになっていくはず。

 

自分に全ての責任を持たせようとしても
相手のせいにはしないでおこうと思いながらも
どうしても相手の悪さのせいにしてしまう。

 

とはいえ、ここで自己否定しなくても
良いと思うんですよね。


人が何かを学ぶには4段階あると言われていて

  1. 無意識的無能
  2. 意識的無能
  3. 意識的有能
  4. 無意識的有能

というプロセスを踏みます。

1の「無意識的無能」は”そもそも自分が知らないことすら知らない状態”。言い換えるなら”無知の無知”ということですね。

そして2の「意識的無能」とは、”自分が知らないことがわかっている状態”。”無知の知”ということですね。

次の3の「意識的有能」は”意識すれば何とか出来る状態”。語学の場合、使い慣れていない文型や単語は、まずアタマの中で組み立てながら口から発するはずですが、まさにその状態。

最後の4の「無意識的有能」はいちいち考えなくても、意識しなくても勝手に出来てしまう状態。長嶋茂雄さんみたいに「スーッと引いてパァーンと打てばホームランになる」ような感じですね。

 

ですから、ココロのことを本やブログやセミナーから学んでも、最初のうちはよほどラッキーでない限りは「意識的無能」と「意識的有能」を行ったり来たりするはずなんです。


こうした状態のときは、基本的にうまく出来なくて当たり前なので

”今はこんなもんだけど、そのうちわかるようになるよね”

と、発展途上の自分自身を肯定的に受け止めるしか無いんですよね。既に”知識として学んでしまった”以上は、こうしたことから免れることはないはずです。


でも、上述の学びのプロセスをすっ飛ばして、いきなり「無意識的有能」に辿り着く方法もあります。それは・・・

 

 

 

 

知識としては学ばずに
自分で気付くこと

 

 

では、どうすれば自分で気付けるようになるのか?というと

 

”自分を何とかしようとするのを止めること”

 

でしか恐らく気付けないと思います。



学ばずに気付くというのは
潜在意識から湧いてくるということだから
学びのプロセスをすっ飛ばして
いきなり無意識的有能になれる可能性があります。

 

じゃあ、学ばない方がいいのか?
というとそれも違くて


心のことを学ぼうが
学ばないでいようが

目指している結果が同一のものであれば
出る結果も同じはずだし

潜在意識から理解できるようになるタイミングも
どちらを選択しても恐らく同じではないのか?
と推測しています。


散々人のせいにし続けて
それでも何にも変わらない状態が続いて
極限までいったときに
何かわかるかもしれません。

 

ですから、
「うまくいかない」
「全然解決しない」
といって

焦ることは無いのかな、と
今、改めて思います。

 

 

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誰でも健康な身体と健全な精神をつくるには?

こんにちは、平林孝之です。

心の問題には身体が密接に関係しているなどということはだいぶ以前から言われていることではあります。

そのため、SNSが普及してからよく見かけることは

”食べ物を見直そう”

というお話。

 

コンビニ食を止めよう

白砂糖は極力少なく

有機食品を食べよう

魚食や菜食を目指そう

人の手が掛かっている食事を摂ろう

などなど

 

こうした食事を心がけて健康な身体と健全な精神を作ろうと

 

確かに日頃口にしているものが自分の細胞を形成しているので、食べ物・口にするものが大事なのはよくわかる。

しかし、現実問題として、身体にいい食事というのはエンゲル係数が高くつく。

日本にいた頃は、独身の頃は日々好きなものを食べることが出来ていたものの、結婚して子どもが生まれてからは小遣い制になり、毎週5000円しか使えなかったので、ロクな食事を出来ず、お昼はせいぜい500円くらいのものしか食べることが出来なかった。

ここでも収入格差が大きく影響していて、低収入では健康な食生活を手にすることはもはや極めて厳しい。せいぜい白砂糖モノには手を出さないくらいしか出来ないはず。

とはいえ、そのまま何にもしないでいては、苦境から抜け出すこともまた難しいはず。

 

じゃあ、何を変えられるのか?

 

人が摂取しているものは

 

空気

水分

食物

 

大きく分けるとこの3種類しかない。

 

此の中でぶっちぎりで改善にコストがかかるのは食物。
となると、お金をかけずに改善できるのは


空気と水分という話になる。

 

そしてこの2つでどちらが心にダイレクトに影響を与えているのか?といえば

空気

 

呼吸が浅いと脳に十分に酸素がいかないから

精神が乱れやすいし
眠りも浅くなるから

疲れやすいし
緊張しやすいし
コンディションは悪くなりがち
当然仕事のパフォーマンスも下がる。

だから、低収入のままでも自分の身体を良い状態に持っていくには

健康的な呼吸法を身に着けて
深い呼吸・お腹よりも下の丹田
呼吸する方法を身につける必要があります。

 

今の望ましくない自分から脱却して
新しいステージに向かって進んでいくには
自分のコンディションは絶対に上げないといけない。


何の自主的な努力も無しに
階段を上がっていくことは出来ないだろう。

人生を上がっていくのは
階段であって
エスカレーターや
エレベーターではないのだから


仮にエスカレーターやエレベーターがあるにしても、そこに乗る最初の一歩は自分自身の意志で踏み入れないといけないものの、それすらしようとしない人が日本にはあまりにも多い。

自分自身、日本にいた頃は色んな意味でずっと苦しく、あまり生きた心地のしない日々を送っていましたが、何とか乗り切ってこられたのも

合氣道を通して丹田呼吸、とても深い呼吸が身についていたおかげです。

以前もこんなことを綴りました。

blog.takayukihirarin.me

 

と言いながらも今でも呼吸が浅いと感じることは多いものの、呼吸法に限らず瞑想による内観もかれこれ18年ほどやっているので、自分の呼吸の乱れをすぐに自分で気付くことが出来ます。

 

自分がそうして日々実践している呼吸法は近々動画でもアップしていく予定です。 

 

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「孤独死」という言葉が嫌い

先日フェイスブックのタイムラインで流れてきた下のコラム。

<「死体格差」死に方から見えてくる現代社会の問題点>

gendai.ismedia.jp

 

この死体格差という言葉が少しショックだったので、この件について自分が思っていることを書こうと思った。このコラムの最後ではこう締めくくっている。

 

一人で生活していれば、病気など何かのときに、誰かに気づかれずにそのまま亡くなってしまう危険性は、確かに高くなってしまう。発見されたときに、亡くなってから時間が経ってしまって、体が腐敗してしまうこともあるだろう。

しかし、一人暮らしの方が、人に気兼ねせずに生活できて良いという人もいる。一人暮らしで、お酒を飲んだせいで肝臓が悪くなり、自宅で亡くなった人を時々解剖する。

そのとき、「なんとかならなかったのか」と思う反面、「好きなお酒を飲んで亡くなったのだろうから、死に方としてはそれほど悪くもなかったのではないか」と思うこともある。このあたりの感覚は、日頃、異状な死をあたりまえのように目にしている法医解剖医ならではの独特な死に対する感じ方なのかもしれない。

一人で暮らすことは何も悪いことではない。一人でひっそり亡くなりたいと思う人もいる。しかし、それを望んでいない人が、「孤独死」を迎えることがないような優しい世の中になって欲しいと強く願う。

 

「死体格差」ってスゴイ表現だけど、僕もこの筆者と同じく「孤独死」って言葉が嫌い。
 
看取られながら死のうが、一人で黙って死のうが、死んじゃえばみんな骸でしかないし
 
ただ、その様が生きて死体処理する立場からしたら悲惨だからこうした死に方は避けたいと思うだけであって
 
死んだ側からしたらみんな等しくあの世へ旅立っているのだから、そこに貴賤はないのではないか?と思う。
 
以前「孔雀王」という漫画で劇中に精神崩壊した人がいて、その様を見た和尚が
 
「精神崩壊も成仏の一つの形」と言っているのを見て「なるほどな」と思った。生きて崩壊者の世話をさせられる人は大変なんだろうけど。
 
結局全部生きている人による勝手なイメージの押し付けでしかないのかもしれない。
 
だから「孤独死」とか言って不安を煽るのはやめてほしい。
 

孤独死をすることになったからといって、その人が生きた人生全てが否定されるわけではない。

 

恋愛に胸ときめかせた日々や

結婚生活のささやかな幸せや

子どもや孫の誕生での喜びや

出世して誇らしかったことや

 

喜怒哀楽に彩られた豊かな日々

全ての人に歴史と物語があるし

その人が生きていくのに関わった人たちも沢山いる。

 

その人はその人なりに死ぬまで豊富な人生を歩んでいたんだ。一人で死んで誰にも気づかれなかったからといって、その人が不幸な人生の歩み手だったと誰が言えるだろうか。

生きている人が発見した死体が悲惨な姿だったとしても、その人が息を引き取る直前は、「ようやくこの人生も終わる」と安らかな気持ちで逝ったのかもしれない。

 

みんな最後はたまたま独りになってしまっただけ。

 

 

 

これからだってこうした死に方はどんどん増えていくのだろうから、「独りでも死んでも大丈夫」という価値観を形成しつつ、チェックする仕組みも作っていくべき。

 

ああした死に方はしたくないな、といくら思ったところで、少子高齢化熟年離婚の影響で、そういう流れになっていってしまう人はこれからも増える一方なのだし。

 

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見られていないようで見られている

先日の投稿で「承認欲求」について触れました。

blog.takayukihirarin.me

 

 

SNSでの投稿を頻繁にしていると、「いいね」やコメントの数などで自分の人気の程度や認知っぷりが気になってしまう。

 

僕もブログ歴はかなり長くて、ブログというものがスタートしたばかりの黎明期の頃から書き始めては潰し、書き始めては潰し、とたくさんブログを書いてきたから

 

それが気になるのは理解できる。

 

ではこうした発信は「いいね」やコメントの数が見られているかどうかの尺度に完全になっているのか?というと、それはまた別の話。

 

このメンタルコーチブログは始めてホントに間もないけど、北京に移住してからずっと北京生活を7年間ずっと綴ってきたブログを運営してきたし

ameblo.jp

 

本来中国では使えないはずのフェイスブックも、VPNを使うようになってからは頻繁に何かしら投稿してきた。

 

それらをトータルでみた場合、人気はあるのかないのかと問われれば、正直よくわからない。仕事には全然つながっていないので、何の実績もないのは確か。でもPVは多い。

 

そして、投稿している件数やつながっている友だちの数やフォロワーの数からみれば、「いいね」の数やコメント数は決して多くはないのかもしれない。

 

でも、北京の日本人社会の飲み会で一緒になった人たちや、営業として訪問しているクライアントさんからはよく

 

「平林さん、ブログやフェイスブックいつもみてますよ」

とか

「最近投稿してませんよね~。どんどんこれからも投稿してくださいよ」

と言われることがある。

 

こうした方々は、日頃僕の投稿に対して何の反応もしない方々ではあるものの。

 

それも、ただの社交辞令かと思いきや、投稿内容をちゃんと記憶している方も多い。

 

こうしたことが意味するところは

個人が発信したものを見ている人は、自分が思っている以上に多い

ということでしょう。

 

 

ただ、ここで勘違いしない方がいいのは

自分は見られている 

 と思って自意識過剰でいる人の投稿は

逆に見られていない 

ということですね。

 

生きるとは、何かと皮肉なものです。

 

 

自分は見られていると思っている人は、少しくらいは省みてもいいのでしょうし

 

自分はなんて認知が少ないんだ・・・と少し悲しい想いをされている方は

 

自分は意外に知られているんだ

と少し自信を持ってみてもいいのだと思います。

心は強くなるのか?

合氣道の道場に通い始めてから

とにかくよく練習した。

blog.takayukihirarin.me

 

働きながらではあったけど

道場には週に4~5日通い

稽古を終えて帰宅してからも

呼吸法30分も含めて身体の使い方など

よく研究していた。

 

そこまでのめり込んだ理由は単純で

心も身体も体術も

 

今よりももっと強くなりたかったから

 

その成果もあり

道場に通い始めて2年少しで

めでたく初段を取得

 

他の道場生と比較しても

かなり早い取得だった。

 

で、何か変わった?

 

うーん、何も変わっていないような・・・

 

初段は取った。

だから何?みたいな

 

この後ほどなく仕事を辞めて

キャリアにおける黒歴史に入り

続けられなくなったために

道場には通わなくなった。

 

通わなくなってからもう15年経ち

その間も呼吸法や瞑想など

結構実践はし続けていて

 

その後もたくさんの厳しい現実を

突きつけられながら今に至っていて

 

そこそこの修羅場を越えてきているので

ではココロは強くなっているのか?

と自分に問うと

 

基本的には何も変わっていないことに気付く。

 

 

自分がかつてイメージしていたことは

キツイ経験と修羅場に身を置き続けて

煮詰まって煮詰まって挙句

 

何かが覚醒してしまい

ある日突然人間が変わることを

自分に期待していた。

 

怖いものが少なくなる自分

いつも明るくて楽しい自分

いつも元気な自分

 

 

でも、そうやって修練を始めてから

17年が経過した今でも

本質的には何も変わっていない。

 

相変わらず臆病だし

新しいことは極力したくないし

何かと面倒くさがりだし

日々が平穏無事なら良いのに

といつも思っている。

 

にもかかわらず

そうした自分の希望とは裏腹に

日々ドタバタのカオス状態で

 

もうカオス歴はかれこれ27年くらい(笑)

 

こうしたことから理解できるのは

人は自分を鍛えてみたところで

本質的な自分は何も変わらないし

ホントは変える必要もない。

 

傍から見て、他の人が

以前とは何か変わったと思わせるのは

本質的な変容が現れているのではなく

 

多種多様な経験を経て

物事を受け入れられる器が広がっているだけ

 

自分も何も変わらないまま

ただ単に、

怖いと思いながら新しいことを始め

億劫だと思いながら行動し

不安を感じながら先に進んでいる。

 

自分が怖いと思っていることは

実際にそうなったら仕方ないよね

 

そんな感じ

 

弱い自分を克服するのではなく

弱い自分の活かし方を考える。

 

そうした生き方にシフトしている。

 

何度も言うけど

人の本質は何をしても変わらないから

 

いい加減諦めましょう。

合氣道に救われた自分の心

僕よりも全然若いけど尊敬もしている人気者のおぜっきーこと尾関さんのブログを読んで想い出した。

 

center-muscle.hateblo.jp

 

僕も彼と同じで合氣道に救われた人間。

 

僕が心のコトを深く考えるようになったり、見えないモノの存在を感じられるようになったキッカケは合氣道でした。

 

自分が習っていた流派は最も”氣”を重視する流派だったので、宗教っぽくて怪しいと言われれば怪しいのだけど、それでも”氣”というものの存在を身体を使って知ることが出来たのは非常に大きな救いだった。

 

おぜっきーも上のブログエントリーの中で

 

わかんないけど、とにかくおぜっきーの場合、合気道がなかったらもう軽く死んでたと思う。

ゆるめ方を知らなかったら、死んでいたかもしれない。 - 「ハラ生き道」

 

と言っているけど、それは僕も同じ。

 

合氣道を学び始めたのは27歳の頃で、今から17年も前のことで、道場に通うのをやめてから既に15年も経過しているけど

 

当時学んだ氣を鍛える呼吸法や身体の使い方など、心身ともに調子悪いときに整える方法を学んで、それは今もずっと日々実践している。

 

そのおかげで、今もこうして生きていられる。

 

もし合氣道を学んでいなかったら、僕もとうの昔に死んでいたかもしれない。

 

人生に失望するあまり。これまでの半生、あまりにも疲れることが多かったから。

それでも何とかやってこれたのは、何と言っても合氣道のおかげ。

 

自分にとってそのくらい原点。

 

うまく行かないことだらけの半生だけど、それでも自分を見失うこと無く日々の営みに精を出せるのは

 

身体を使って心の不調を立て直せるから。

だからホントに合氣道の先生方や当時自分によくしてくれた兄弟子の方々には感謝している。

 

心の不調を心で悩みぬいて解決しようなんてやっていたら、僕の人生は恐らくとっくの昔に終わっていたかもしれない。

 

人生の真価は不調のときにどう過ごすか

上手く行っていないときに どう過ごすかに現れる。

 

そのカギというのは、身体にあるんですよね。

これから時折、そんなことにも触れながら進めていきます。